カテゴリ:本



本の処方箋 · 22日 5月 2020
私は、本の専門家ではないし、詳しい知識もありません。 けれども、本が大好きで、本の中をたくさん旅してきました。 そんな私が営む、小さな本の専門店の扉を、ギィッと開ける感覚でお読みいただけたら幸いです。 独断と偏見たっぷりの、本の処方箋をお出しします。
梨田のノオト · 01日 5月 2020
今日のお昼は、何にしようかなぁ? と、冷蔵庫の中身とにらめっこ。 Stay homeで、良かったことのひとつは、買い物の回数をできるだけ少なく、今あるものの中で、なんとか一食分を乗り切ろうとする、工夫が身についたこと。 冷蔵庫にはたけのこ。冷凍庫には昨日の餃子の中味だけ。乾物ストックを見ると春雨がありました。 肉だんごスープ!...

梨田のノオト · 29日 3月 2020
何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさにいえば人生の選択を左右することがある。その子は、しかし、そんなことには気づかないで、ただ、吸い込まれるように本を読んでいる。自分をとりかこむ現実に自信がない分だけ、彼女は本にのめりこむ。その子のなかには、本の世界が夏空の雲のように幾層にも重なって湧き上がり、その子自身がほとんど本になってしまう。    ー須賀敦子全集4 まがり角の本ー 須賀さんのおっしゃる「本に読まれる」という体験を初めて経験したのが小学校3年生の時、それは「大どろぼうホッツェンプロッツ」でした。何故、そんなに鮮明に覚えているかというと、その当時の担任の先生が大好きで、母と行った土曜日の図書館でたまたまその先生に会い、「この本おもしろいよ」と勧めてくれた本だったから。 学校の外で先生と会うなんて、小学生の私のとってはちょっとした事件でしたし、学校のなかでの授業の一環ではなく、プライベート(おそらく娘さんと連れ立って)で来ていた先生に、図書館のそびえ立つ書棚の影で、こっそりひっそり面白い本を教えてくれた秘密めいたことも含めて、私が本に読まれるきっかけを作ったのだと思います。 先生は、先生という生き物だと思っていたので、学校の先生以外の顔があるなんて考えもしなかった小学3年生の私は、その後も読む本に困ったらその先生にたずねるということを1年間繰り返し、今でも大好きな「おちゃめなふたご」も「ちいさい魔女」も、全部その先生から教えてもらった本なのです。 その時期に読んだ本に「すてきなケティ」のシリーズがあります。冒頭の須賀敦子さんの文章に続くのは、須賀さんがこのシリーズに「読まれた」経験のエッセイ。私が持っている「すてきなケティ」は、当時「ケティー物語」として知られる家庭小説で、赤毛のアンや若草物語、あしながおじさんや小公女なんかと一緒に当時の少女に親しまれたアメリカの物語です。 もちろん、当時の家庭小説にありがちな教訓めいたお話しも多いのですが、これらの家庭小説に出てくる、バスケットを持ってピクニックや、お友達を読んでのお茶会。森で摘んだ花々で帽子を飾ったおしゃれや、馬車にのっての街へおでかけ。更にはモスリンのお洋服やキャラコ生地なんて表現も、教訓なんてすっ飛ばして読む価値のあったものだろうと思います。 須賀さんが子のエッセイの中で、ケティ―物語を初めて読んだ当時、その物語にどういう感想を持ったのかわからなかったと書いていらっしゃいます。それは、―ある夏の午後ウサギの穴に落ち込んだアリスのように、いきなり、ケティ―の世界に吸い込まれてしまったよう(本文より)―な体験で、面白いとか、ワクワクするからとか、それは後付けの感想なのであって、もう私自身がケティーで、私自身が主人公となり、物語を動かしているような感覚なのだと思います。 いくら本が好きで、多く読んでいても、この感覚は毎回訪れるものではなく、本当に限られた本でしか味わえるものではありません。それも、この本でこの状態になれる!というのは、絶対に誰にも分らないのです。 いわゆる「本読みのトランス状態」は安易に寝食を忘れますし、暮らしにまつわる全ての事が全て後回しにされ、本の向こう側へ旅をしているような感覚で、現実への帰還が本当に難しい。こんな時、指輪を捨てる旅からもどったフロドが、ホビット庄を離れる気もちが良くわかります。生きて帰りし物語。でも、以前の私じゃない。 でも、この体験は圧倒的に子どもの頃が多くて、大人になってからはほとんど経験できていないのが現実です。あの頃は純粋だったからかというとそうでもなく(笑)、きっと、日常の細々したことを気にすることなく、それだけ人生に空白があったのだと思います。今の私はその空白を一生けんめい作り出して本を読んでいるのであって、ぽっかりと空白がある場所に本が飛び込んでくるのではないのですよね。 それでも私は空白を作り出し、読みたい本を読むために、日常をパッチワークのように紡いでゆくのですけど。